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「内なる時間」と「外の時間」
「時間」に興味を持つようになったのは、人生が後半に入ってからのこと。

現実に生きている時間が残り少なくなって来たと感じたからか。
それとも、余りに忙しい日々の中で外に流れる時間と
内なる気持ちのズレに戸惑い始めたからか。

それも、ただ、書物に書かれた「時間」を頭に詰め込むだけではなく、
「時間」そのものを体感することに、初めから興味は向けられていた。

7〜8年前のこと。
その頃のテーマは、「スピード=量」対「ゆっくり=質」、
対極にあるもののどちらを選択するか〜だった。
ゆっくり静かに過ごしたいのに、どこからか聞こえる急げと言う声に追われて
現実はいつも忙しない。そのことにがっかりと同時に呆れ返っていた頃だ。

ある時、用事で横須賀方面の電車に乗っていた。
車窓を何気に眺めていた時、瞬間、「スピード」と「ゆっくり」を同時に体感した。
感覚は、瞬時に消えたが、「感じた」ことは、身体のどこかに刻まれ、
対極にあるそれらが、同時に存在し得る確信を持った。

その体感・体験は、頭で考えようとしても、
全く掴み所が無く、手のつけようがない。
言語で説明しようにも、論理的に理解しようとしても、できない。
内なる深い「室」で、ただ、微かに発酵していくのを眺めるしかない。

暦が数年経ち、「スピード」と「ゆっくり」が同時に存在し得るのは、
「内なる時間」と「外の時間」の重なりかもしれないと考えるようになる。

いくつかの「時間」に関わる不思議な体験や、多くの夢との語らい、
そして無理のない書物との出会いを経て、
「室」の中の発酵が、少しずつ形を見せ始めてきたのだ。
透明な水の戦慄のような拡がり………

そして、一週間程前のできごと。

確かに、内なる世界に埋没して「内なる時間」が充実すると、
あっという間に外の時間が過ぎ去ること、
気がつくと、「あら、もう、こんな時間?」という経験は誰にでもあるだろう。

また、退屈で無理矢理その場に居なければならない時(興味のない授業中など)、
いつまで経っても、時計の針が進まなくて、
「あーぁ、まだ、こんな時間?」という感覚は、誰でも知っている。

一週間程前、そのどちらでもない、それらの対極ともいえる経験をしたのだ。
それも数人で一緒に体験したできごと。

夢中になって、楽しくて、満ち足りて、内なる世界に埋没して、
身体を動かし、たくさんの体感・体験をしたのに、
気がついたら、「あら、まだ、こんな時間?」
通常それだけのことをするのに、時計が進むはずの「外の時間」の経過が、
半分も過ぎていなかった。

どこか、夢と似ている。
夢の中で、何日も過ごしたはずなのに、目覚めてみると次の日の朝。

そう、夢は「内なる時間」の体験であり、
「外の時間」とは異なる奥行き・広さ・在り方を持つ。

そんな夢の体験を、眠りの中で独りだけで経験するのではなく、
目覚めている状態で、身体を動かしながら、複数の他者と共に味わったのだ。

夢は独りだけの体験で、残念ながら他者との共有は難しい。
「私」の夢を「他者」と複数で体験することはできない。

それを体験したのだ………
しかも、時計という「外の時間」で計ることのできる形で。

私たちは、眠っていても起きていても、
「内なる時間」と「外の時間」の重なりの中にいる。
即ち、常に同時にいつでも、どちらの時間にも属しているのだ。
起きたまま、眠りの世界を体験することもあり得るだろう。

満々と水を湛える泉のような「内なる時間」に浸りながら、
規則的に進む現実の「外の時間」を活きること、
それが「スピード」と「ゆっくり」を同時に感じる瞬間を生み出し、
対極の座にそのまま存在できることを体感させる。

こうやって、言語を駆使し、説明できることではないのだけれど…。
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