絵を描くことで元気になる
最近、つくづく描画(アートで自己表現すること)の「チカラ」を実感してます。

アートセラピーでは当たり前のことだけど、アート表現によって元気になっていく方が,
今周囲に続けて何人も現れていて、今更ながらに、体感しながら納得しているのです。

また同時に、そうやって表現された絵が、今度はそれを観た人たちに、
元気を与えることも起きていて、ビックリと共に感動しています。

何故、絵を描くことで、元気になるのかなぁ?
ちょっと考えてみました。

自己表現は、自分との語らいであり、自己受容につながるものです。
特に、描画は、言葉や文字と違い、自分の中の曖昧で微細なエネルギーも現れてきます。
現れたものは、自ずと自分に語りかけ、いつの間にか意識せずとも、
そのままの自分を受けとめていきます。
具体的な発見や気づきになる場合もあるでしょうし、
気がついたら心がスッキリ!になっていることもあるでしょう。

自己受容は、自尊感情(self-esteem)を育みます。
自尊感情(self-esteem)がアップすると、さらに自己受容は容易になり、
またまた自尊感情(self-esteem)は育っていく〜
このサイクルに入っていくので、元気になり、一歩前に踏み出せるのでしょう。

また、表現された思いやエネルギーは、観る人の心奥深くにしみこんでいき、
心の扉をノックします。
成長を促進するエネルギーは、自らだけでなく、観た人の心もオープンにしていくのです。

こうやって、理論的に言語で考えるのも必要ですが、まずは試してみるのが一番!
クレパスを持って、画用紙に向かって、今の心模様を表現してみると、
きっと、さらに「描画=元気」がピンと来るはずです。
| - | 15:54 | - | -
花の瞑想
今、ベランダの前に、びっしり花を付けた八重桜がある。

毎年咲くのだけど、こんなに密集して咲いてたっけ?〜と思うくらい、
ピンクのモコモコでいっぱいになっている。

それも、結構長く保っていて、ここしばらく春を楽しんでいる。

毎朝、カーテンを開けると、まずそのピンクに目がいく。

しばらく取り憑かれたように、じっと見つめる。

ある時は、春の物語を語り合っているかのよう〜
ある時は、鳥の囀りと共に、静かな生命を味わっているかのよう〜
ある時は、群れながら舞い狂っているかのよう〜

いつの間にか、私は「桃源郷」という言葉に浸っていた。

辺り一面、ピンク、柔らかな花びらの揺り籠、
ボアのように温かく、生まれ出たエネルギーを抱く。

光と風と、そして 微かな子守歌…

いつの間にか、私は花を取り込み、花に取り込まれ、
       モコモコの八重桜になっていた、

花の瞑想……
| - | 19:41 | - | -
時の往来
時は 行ったり 来たり する。
現実の時間(外の時間)から 解き放たれて、
昨日 今日 明日は 垂直に流れるのをやめ、
行ったり 来たり、 戻ったり 進んだり…

やさしくて あたたくて 明るくて 澄み切っていて

遠くも近くも そこにあり、
          行ったり 来たり…
身体を動かし 身体を離れて、
          行ったり 来たり…  

年を経るということは こういうことなのだ きっと〜
生まれたばかりということは こういうことなのだ きっと〜 

同じように年を重ねた仲間と集う空間、
生まれて未だ月日の浅い 
小さな小さな その身を抱き上げる日だまり、

現実の時間は 突然 その暴力的力を失い、解き放たれる。             
時の矢印は方向を見失い、右往左往して、揺り籠を揺らす。
          
行ったり 来たり…
味わえば味わうほど 充ち満ちる 静けさ。
| - | 18:55 | - | -
「内なる時間」と「外の時間」
「時間」に興味を持つようになったのは、人生が後半に入ってからのこと。

現実に生きている時間が残り少なくなって来たと感じたからか。
それとも、余りに忙しい日々の中で外に流れる時間と
内なる気持ちのズレに戸惑い始めたからか。

それも、ただ、書物に書かれた「時間」を頭に詰め込むだけではなく、
「時間」そのものを体感することに、初めから興味は向けられていた。

7〜8年前のこと。
その頃のテーマは、「スピード=量」対「ゆっくり=質」、
対極にあるもののどちらを選択するか〜だった。
ゆっくり静かに過ごしたいのに、どこからか聞こえる急げと言う声に追われて
現実はいつも忙しない。そのことにがっかりと同時に呆れ返っていた頃だ。

ある時、用事で横須賀方面の電車に乗っていた。
車窓を何気に眺めていた時、瞬間、「スピード」と「ゆっくり」を同時に体感した。
感覚は、瞬時に消えたが、「感じた」ことは、身体のどこかに刻まれ、
対極にあるそれらが、同時に存在し得る確信を持った。

その体感・体験は、頭で考えようとしても、
全く掴み所が無く、手のつけようがない。
言語で説明しようにも、論理的に理解しようとしても、できない。
内なる深い「室」で、ただ、微かに発酵していくのを眺めるしかない。

暦が数年経ち、「スピード」と「ゆっくり」が同時に存在し得るのは、
「内なる時間」と「外の時間」の重なりかもしれないと考えるようになる。

いくつかの「時間」に関わる不思議な体験や、多くの夢との語らい、
そして無理のない書物との出会いを経て、
「室」の中の発酵が、少しずつ形を見せ始めてきたのだ。
透明な水の戦慄のような拡がり………

そして、一週間程前のできごと。

確かに、内なる世界に埋没して「内なる時間」が充実すると、
あっという間に外の時間が過ぎ去ること、
気がつくと、「あら、もう、こんな時間?」という経験は誰にでもあるだろう。

また、退屈で無理矢理その場に居なければならない時(興味のない授業中など)、
いつまで経っても、時計の針が進まなくて、
「あーぁ、まだ、こんな時間?」という感覚は、誰でも知っている。

一週間程前、そのどちらでもない、それらの対極ともいえる経験をしたのだ。
それも数人で一緒に体験したできごと。

夢中になって、楽しくて、満ち足りて、内なる世界に埋没して、
身体を動かし、たくさんの体感・体験をしたのに、
気がついたら、「あら、まだ、こんな時間?」
通常それだけのことをするのに、時計が進むはずの「外の時間」の経過が、
半分も過ぎていなかった。

どこか、夢と似ている。
夢の中で、何日も過ごしたはずなのに、目覚めてみると次の日の朝。

そう、夢は「内なる時間」の体験であり、
「外の時間」とは異なる奥行き・広さ・在り方を持つ。

そんな夢の体験を、眠りの中で独りだけで経験するのではなく、
目覚めている状態で、身体を動かしながら、複数の他者と共に味わったのだ。

夢は独りだけの体験で、残念ながら他者との共有は難しい。
「私」の夢を「他者」と複数で体験することはできない。

それを体験したのだ………
しかも、時計という「外の時間」で計ることのできる形で。

私たちは、眠っていても起きていても、
「内なる時間」と「外の時間」の重なりの中にいる。
即ち、常に同時にいつでも、どちらの時間にも属しているのだ。
起きたまま、眠りの世界を体験することもあり得るだろう。

満々と水を湛える泉のような「内なる時間」に浸りながら、
規則的に進む現実の「外の時間」を活きること、
それが「スピード」と「ゆっくり」を同時に感じる瞬間を生み出し、
対極の座にそのまま存在できることを体感させる。

こうやって、言語を駆使し、説明できることではないのだけれど…。
| - | 13:30 | - | -
新たなる年の始まり〜『大切な人』
去年の1/11、『大切な人』があちらの世界へ旅立っていった。
闘病の床に在ったとはいえ、思いの外早い旅立ちに
私は、戸惑いと共に、こちら側に残された。

そのこちら側に訪れた、3/11と以後の世界。

あまりの急激なシフトに、過去への執着と新世界への適応がぶつかるまま、
心も身体も、翻弄され続けて、2011年は過ぎていった。

こちらの世界の時計が新年になっても、
腑に落ちない違和感は、拭い去れなかった正月。

風花が舞い、虹が広がる、対極の風景の中を、
神や仏に祈りながら、必死に歩き回った…
何かを、何かを、自分から引き剥がしたかったのか…

当然の事ながら、無理が祟って、不調に陥った。

そして、1/11。
漸く、心身が落ち着きを見せ始めた日、

「そうだ、この日が新年のスタートなのだ!」という囁き。

それを指し示す、様々な共時性と緩やかな気づき。

当たり前のこと。

あちらの世界とこちらの世界、場は違っても、共にあることは同じ。

頭で解っていても、腑に落ちなかった…

こちらの世界に共に居ても、会えない人もいる。
こちらの世界に共に居ても、繋がりを確認する術のない人もいる。

こちらの世界では、時は、一方の矢印の方向へしか、進まない。
放たれた矢のようなこちらの時間の隙間に、一瞬垣間見えるあちらの時。

場は違っても、時は違っても、『大切な人』達と共にいる幸せ、
その感覚が、腑に落ちる瞬間、そして瞬間。

この世界の新たなる年が始まっていく。

いの
| - | 16:07 | - | -